農地法の壁は厚かった

美しい九十浜で奈落の底に

 「農業委員会による審査の結果は保留になりましたので、とりあえず取下書を提出してください。」

 役場からの事務的な冷たい電話に凍り付き、10秒ほど意識を失っていた。

 仮住まいしている家から車で30分ほどの九十浜でエメラルドグリーンの美しい海を見ながら、南伊豆はやっぱり最高、大好きな農作業やプログラミングをしつつ、いつでもこんな絶景を眺められる生活がもうすぐ手に入るんだな、といい気分で散歩していたはずが、電話1本で灰色の景色に変わってしまった。

 どんな絶景も、本人の心の状態いかんで、最高にも最低にもなり得る。

 
 農地法の許可を停止条件とする売買契約を締結し、農地法第3条の許可を申請。農業委員の現地視察を経てあとは結果通知を待つばかりだった。
 ここまでに関わってきた不動産屋、役場担当者、そして農業委員も皆前向きにサポートしてくれて、移住歓迎モード。否定的な言葉は一切出ず、許可はほぼ間違いないと思っていた。しかし結果は取り下げろだと・・・。

 農地法の許可が下りなければ契約は解除されるので、海と山に囲まれた温暖な南伊豆でのセミリタイヤ生活は束の間の夢と消えてしまう。。。仮住まいとはいえ実際に引っ越しまでして1ケ月、その住環境にますます惚れ込んでいたところにこの仕打ち。笑顔で握手を交わしていた相手からキンタマ蹴りをくらったような衝撃が走った。
 そもそもここまでの話がうますぎた。
 相続なら鍬1本握ったことのない人間が農地を所有できるのに比べ、世襲でない人間に対するその審査の厳しさはあまりに不公平と思うけれど、農家でない人間が新規就農して農地を所有するには、農学校を出るか、1年程度の研修を受けなければ審査のステージにさえ上がれないはずで、3年前東伊豆町役場に相談しても門前払いだった。

 今回は不動産屋で非農家未経験の移住者が許可を受け農地を所有できた前例があると言われ、南伊豆町役場に相談するとあっさり申請を受理してくれて、農業委員も移住を歓迎してくれた。東伊豆町に比べ南伊豆町はなんて温かいんだ、と思っていたら、実に残酷。人をその気にさせておいて最後に蹴落とすくらいなら、最初から断ってくれるほうが優しさと知った。

 
 

絶望からの復活

 すぐに役場へ行き担当者の話を聞くと、所有はダメだけど借りるならOKかもしれないとのこと。利用権設定をして1、2年耕作を継続すれば所有を認めてくれる可能性があるらしい。利用権設定も農業委員会の審査が必要だけど、農地法第3条の許可よりは緩いようで、届出書もA3一枚の簡単なものだ。

 問題は不動産屋で、農地法の許可を得られなければ契約は解除が原則だし、所有権移転登記には農地法の許可書が必要なので残金の支払いもできない。自社物件なので仕入れが発生しているのに1年も支払いを待ってくれるはずがない。

 しかし不動産屋に事情を説明したところ、なんと1年待ってくれるという。しかも固定資産税等のみ負担してくれれば住み続けてもいいという。手付金として1割の72万円しか払っていないのに、なんと太っ腹。

 

 
 
 利用権設定について来月の農業委員会による審査を経なければまだ確実ではないけれど、数日眠れない夜を過ごしたものの、なんとか首の皮一枚でつながったようだ。

 当初1カ月でカタがつくと思っていた農家物件取得がさらに1年延びてしまうのは少々不安ではあるものの、考えようによってはもし今現在は気付かない重大な問題点が物件や周辺環境にあった場合は最悪栃木に逃げ帰ることもできる、私を信頼してくれている不動産屋に不義理はしたくないけれど。

 所有権を取得していないあやふやな状態で農機具小屋を建てたりといった多額の投資はしにくくなってしまったけれど、移住お試し期間と思えば悪くない。
 

移住から1カ月

 なりゆきで始まった南伊豆の生活もいつの間にか1月が過ぎた。
 晴れて風のない穏やかな日は、車であちこち出かけている。半島の先端なので数十の浜や港があり、それぞれ砂浜だったりゴロタ浜だったり磯だったり景観がさまざまで個性豊かなので、ここからカヌー出したら面白そうだとか、夏はシュノーケルで遊べそうなど色々想像しながら楽しんでいる。

 山の中にも植物園とか公園や遊歩道などさまざまな施設があって、海山の自然を満喫するのにこれほど恵まれた場所もないだろうと思う。今まで住んでいた栃木も山の中だけど、どこまでいっても同じような景色しかなく、自宅で味わえる自然とそう変わらないのであまり出かける気にならなかった。伊豆は狭い範囲に多様な植生や景観が凝縮し、変化に富んだドライブが楽しい。

 
 出かけない日はたいていプログラミングをして過ごしている。海に近いおかげで朝晩の冷え込みがなく、寒暖差の激しい内陸の栃木に比べだんぜん体にストレスがかからず天国のよう。台風でも来ないかぎりめったに風の吹かない内陸と違い風は強いけれど、洗濯物が飛んでいくような日は週1度くらい、それも数時間程度で収まるので思ったより気にならない。

 車で5分のマックスバリューには地元の新鮮な魚介類、道の駅直売所には野菜が安く売られていて、食生活は栃木より安上がりでずっと充実している。
 
 長年憧れつづけた伊豆は思ったとおりのパラダイス。あとは畑の利用権を獲得して早く畑仕事を始めたい。ずっと日課だったので、体を動かさないといまいち調子が良くない。